共闘。
「私も一緒に悩みたかった。
いろいろとしてあげたかった。
ちょっと羨ましい・・・」
過去形で話すこの人は、突如心筋梗塞でご主人を亡くされた(前述)。
その大親友が、ガン対峙の真っ只中にある。
家族ぐるみでの付き合いがある。
精神的にもずいぶん助けてもらった。
動揺・錯乱・絶望の淵にいたところを、
引き上げてくれて、包み込んでくれた人。
今度は、その大親友のご主人に突如突きつけられた、
がん告知と余命宣告。
しかも、主治医は「さじを投げた」。
ガン治療を行うための病院を他に探してはみるものの。
どこの病院でも提供する治療法に大差はなく、同じようにさじを投げた。
(殆どのガン治療拠点・大病院は、がん学会が定めた標準的な
がん治療のガイドラインを遵守しているからだといわれている)
冷静ではいられない。
むしろ・・・明らかにパニクっていたらしい。挙動不審ささえも・・・。
ガンにいいと言われる物は片っ端から手をつける。
やみくもに、言われるがままに・・・。
あれも!これも!
焦ってるばかりでは何にもならない。
がん告知+余命宣告+治療放棄 = 死 。
恐怖と絶望で、この方程式しかないと勝手に思い込んでしまう。
このときは、「死」をひたすら拒絶するだけで、
「対峙」するという精神状態ではなかったんだろう。
おふたりとも、子供二人もつ母親どうし。
今まで独りで抱え込んでいた。
不安で不安で、聞いて貰いたくて、話したかったんだろう。
母親同士がともに寄り添うことで、一変した。
オロオロしながら独りで闇雲に突っ走っていた。
今では、親友同士・母親同士で共闘してガンに臨まれている。
心強く感じることだろう。男前なことだ。
なかなかいえない本心、不安や心配事だって言える。
情報にしても、格段に増えるし、判断を仰ぐことだって出来る。
説明会や講演会にも3人で出掛けている。
精神的な焦りや不安を、取り除くガス抜き効果としての存在かもしれない。
ガンとの対峙。
患者本人だけじゃない。家族も、そしてその友人も参画しての対峙。
治療法の決定には関与せず、助言はいっぱいするというスタンスで、
寄り添う関係となっている。背中を摩ってあげる関係に。
その状況を聞いていて、とてもいい関係に思える。
「私も、いろいろとしてあげたかった」
心筋梗塞という予期もしない「終い方」で、最期を寄り添ってあげられなかった。
その想いが、悔しさが、冒頭の言葉に如実に表れたと思う。
そういう時間。目をそむけないで一緒に悩みぬくということ。話し合い。
そういう関与すらできなかったという悔しさ・虚しさからなのか。
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